「の党は アスンシオン 喜びの日。神の勝利。愛が勝ったのです。人生が勝ったのです。
愛は死よりも強いこと、神には真の力があり、その力は善であり愛であることが明らかになりました。 マリアは身も心も天に召された。 神の中には、肉体の居場所もあるのです。天国はもはや私たちにとって、とても遠い未知の領域ではありません。 天国には母がいる。
そして、神の母、神の子の母は、私たちの母なのです。自分でそう言っていた。弟子と私たち全員に「あなたの母を見よ」と言われたとき、私たちの母とされました。
空は開いていて、心を持っている。 福音書の中で私たちは、マリアの唇から、いや、むしろ心から発せられたこの偉大な詩、マニフィカトに耳を傾けなければならないのです。をイメージしています。 聖霊.この素晴らしい讃美歌には、マリアの全魂、全人格が反映されています。この賛美歌は、マリアの肖像画、まさにマリアのイコンであると言えるでしょう。この偉大な讃美歌の2点だけを取り上げてみたい。
私の魂は主を「称える」、すなわち主が偉大であることを宣言する、という言葉から始まるMagnificat。マリアは、神が世界において偉大であり、彼女の人生において偉大であ り、私たちすべての中に存在してくださることを望んでいます。彼女は恐れていない。神が偉大であるならば、私たちも偉大であることを彼女は知っています。彼女は私たちの生命を抑圧するのではなく、高めて偉大にするのです。
最初の親がそう思っていなかったことが、原罪の核心である。神が大きすぎると、自分たちの生活から何かを奪ってしまうのではないかと恐れたのだ。彼らは、神を押しのけてでも自分の居場所を確保しなければならないと考えていた。また、このことは、この3、4世紀の近代の大きな誘惑でもあった。
このことは、まさに現代の経験が裏付けている。 神が偉大であればこそ、人間は偉大である。マリアとともに、私たちはそうであることを理解し始めなければなりません。.私たちは、神から目をそらすことなく、自分の生活の中で神を存在させ、神を偉大な存在にしなければなりません。これを私たちの生活に当てはめてみましょう。公的な場でも私的な場でも、神が私たちの間で偉大であることが重要なのです。
公の場でも、私生活でも、神を崇めましょう。それは、私たちの生活の中で、毎日、神のための場所を作ることです。朝、祈ることから始まり、神に時間を捧げ、神に日曜日を捧げることです。
2度目の反省。このマリアの詩、マニフィカトは全くのオリジナルであるが、同時に旧約聖書の「糸」、神の言葉から「編まれた」ものである。マリアは、いわば「自分の家」のようにくつろいでいたのです。 の言葉です。 は、神の言葉によって生き、それを理解していた。
実際、彼女は神の言葉を語り、その思いは神の思いであった。彼女は神の光に照らされ、また知恵という内なる光を受けていた。だから、彼女は愛と善を放射していたのです。マリアは神の言葉によって生き、神の言葉に染まっていたのです。彼女は神の言葉にどっぷりと浸かっていたのだ。
神とともに考える者はよく考え、神とともに語る者はよく語り、世の中のあらゆることに有効な判断基準を持ち、賢く、思慮深く、同時に善良になり、また神の力を得て、悪に抵抗し、世の中に善を推進する強く勇敢な者になる。
この神は私たちに自由を与えず、そのすべての戒律で私たちの生活空間を制限している」と考え、言われることが多くなった。だから、神は消えなければならない。私たちは、自律的、独立的でありたい。この神がいなければ、我々は神となり、好き勝手なことをすることになる」。
ベネディクト16世 2012年8月10日のホミリー。
このように、マリアは私たちに語りかけ、神の言葉を知り、神の言葉を愛 し、神の言葉と共に生き、神の言葉と共に考えるよう、私たちを招き入れ るのです。聖典を読むこと、そして何よりも、次のような様々な方法でこれを行うことができます。 カトリックミサ一年の間に、聖なる教会は聖典の全巻を私たちに開いています。彼女はそれを私たちの生活に開き、私たちの生活の中に存在させるのです。
しかし、私はまた、カトリック教会のカテキズム大要のことも考えています。そこでは、神の言葉が私たちの生活に適用され、私たちの生活の現実を解釈し、神の言葉という大きな "神殿 "に入り、それを愛することを学び、マリアのように、この言葉を身にまとうことを助けてくれるのです。そうすることで、人生が光り輝き、判断基準ができ、善と強を同時に受け取ることができるのです。
聖母マリアは、被昇天によって、身も心も天の栄光へと引き上げられ、神とともに天地の女王となられました。 このように、彼女は私たちと距離を置いているのでしょうか。それどころか 神とともにあり、神の中にいるからこそ、私たち一人ひとりにとても近い存在なのです。 マリアは地上にいた時、数人の人としか親しくなることができませんでした。マリアは、私たちの近くにおられる神の中に、さらに、私たち皆の中におら れる神の中にいることによって、神のこの親密さに参加するのです。
神の中にあり、神とともにあるマリアは、私たち一人ひとりに寄り添い、私たちの心を知り、祈りを聞き、その母なる優しさで私たちを助けてくださいます。彼女は、私たちがいつでも頼ることのできる「母」-そう主は言われました-として、私たちに与えられました。そして、御子の母として、御子の力、御子の善を分かち合っているのです。
私たち一人ひとりにいつも寄り添ってくださるこのお母様の手に、私たちの全人生を委ねることができるのです。この祝日に、私たちはこの母なるものの贈り物に感謝し、日々正しい道を見出すことができるようマリアにお願いしましょう。アーメン。
ドン フランシスコ・バロ・ピネダ
神学部研究部長 ナバラ大学 聖典教授。
2005年8月15日、カステルガンドルフォ(イタリア)で行われたベネディクト16世の説教から抜粋したもの。