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キリストに会えたのでしょうか?

12/09/2025

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キリスト教信仰、すなわち聖ミサは、キリストとの生きた出会いであるか、そうでないかのどちらかです。だからこそ、慎重な典礼がキリストとの出会いの可能性を保証するのです。

キリスト教信仰、すなわち聖ミサは、キリストとの生きた出会いであるか、そうでないかのどちらかです。だからこそ、典礼は私たちにキリストとの出会いの可能性を保証してくれるのです。

1929年7月14日、ニューヨークで家族に宛てた手紙、 フェデリコ・ガルシア・ロルカ 宗教的な事柄における荘厳とは、親愛の情であり、それは神の臨在を感覚的に生きた形で証明するものだからです。神が私たちとともにおられる、神を礼拝し崇めよう、と言っているようなものです。

フェデリコがこの言葉を書いたとき、彼の心や頭の中に何があったのか、私にはわかりません。私が言えるのは、この言葉が彼の詩人の魂の現れであり、生ける神との出会いの美しさに対する彼の感謝の表れであるということです。

聖ミサ、生けるキリストとの出会い

使徒的書簡デシデリオ・デシデラヴィ「見出し 典礼:キリストとの出会いの場 教皇フランシスコは、「ここに典礼の力強い美しさがあります。 典礼はそのような出会いの可能性を保証してくれます。最後の晩餐の漠然とした記憶は、私たちにとって何の役にも立ちません。

聖体において、またすべての秘跡において、私たちは主イエスと出会い、イエスの過越の力に導かれる可能性を保証されています。イエスの犠牲の救いの力、イエスのすべてのことば、イエスのす べてのしぐさ、視線、感情は、秘跡の祝いの中で私たちに届くのです」(nn, 10-11)。

「キリストとの生きた出会いそして、すべての秘跡においてイエス・キリストが現存し、非常に特別な方法で、秘跡的に行為されるとすれば、聖なる秘跡においてこそ、イエス・キリストが現存し、行為されるのです。 質量.

「ミサは三位一体から教会への賜物であるため、信仰の根源的な秘義の前に私たちを置きます。したがって、ミサがキリスト者の霊的生活の中心であり、根源であることは理解できます(...)。

ミサにおいて、洗礼によって私たちのうちに預けられ、堅信によってさらに強まる恵みの生命は、その完全性を発揮します。聖体にあずかるとき、私たちは聖霊の神格化を体験します。聖霊は、洗礼で起こるように、私たちをキリストに合わせるだけでなく、私たちを完全にキリスト化し、キリスト・イエスの完全な姿と結びつけてくださるのです」(ヨゼマリア・エスクリヴァ. 通り過ぎるのはキリスト、86、87節).

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聖ミサにおける典礼の美しさ

聖ミサの祭儀の中で表現される典礼の美しさについて言及したこれらの文章は、日曜日の午後に私の心に浮かびました。病人を看病した後、しばらくの間、主のお供をするために教会に行きました。午後8時、祭儀の15分前でした。教区民は、沈黙とある種の回想の中で、到着し始めました。男性の多くは短パンをはいており、女性の数も少ない。

家族の友人のパーティーや、仕事上の上司との会合にその服を着ていったでしょうか? 仕事上の業績や出版された本などで表彰されるときにその服を着ていったでしょうか?

教会の入り口のドアには、そのような服装で教会に入ることを禁止するような看板はありませんでした。おそらく司祭たちは、他の機会に彼らがイエス・キリストの聖体拝領のためにこのような格好で近づいてくるのを見ても、何も言わなかったでしょう。

100人以上の男女が聖体拝領のために祭壇に集まりました。ミサが終わるとすぐに教会は空っぽになりました。 司祭は祭壇を片付けた後、幕屋の前を通り過ぎるときもひざまずくことなく、かろうじて半分間、中で黙ったままでした。そして、聖体をいただいたことを神に感謝しながら教会に残った信徒は、かろうじて十数人でした。 教区の信徒たちは、人となられた神の御子に出会ったことを自覚していたのでしょうか? そして、ミサの一瞬一瞬をイエスと共に生き、聖なる聖体の中でイエスを「食べた」ことを自覚していたのでしょうか?


原文掲載 宗教コンフィデンシャル

エルネスト・ジュリアernesto.julia@gmail.com

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